阿部譲二のMのある風景―屈辱の披露パーティ(第三話)


2010/12/8 阿部譲二作


破局

 それから数週間が過ぎたが、弁護士は姿を見せなかった。幸夫はほっとしたものの不安な気持ちは消えない。そして、しばらく休止していた毎週金曜日のデートに久し振りで久美子と顔を合わせた時である。何時ものようにレストランでの食事を終えると、久美子は改まった口調で幸夫に話しかけた。
「幸夫さん、私、先日匿名の女性からの手紙を貰ったの。……ホラ、これよ。内容は見て貰えば分かるけど、この女性は電車の中であなたにお尻を触られたと書いてきてるのよ。」
「実は……それは……全くの誤解なんだ! ぼ、僕はやってない。信じてくれ」
「私だって信じたいわ。……でも、これを見て頂戴。あなたが署名捺印した謝罪状のコピーよ。これでもあなたはやってないと言い張る気?」
 幸夫は一瞬言葉を失った。"なぜ、あの謝罪状のコピーが、それも久美子のところに……"黒い疑惑の雲が湧く。"そうだ、あの弁護士が……畜生!"
 黙って俯いたまま思い乱れる幸夫の様子は、久美子の目には明らかに自分の非を認めた姿に映ったのである。
「もういいわ。……別れましょう。……あなたは、自由に他の女のお尻でも追いかけたらいいわ。」
 久美子は、憤然と席を立って出口に向かう。
 茫然とした幸夫の背に「式場の予約のキャンセル、忘れないでね」と久美子の捨て台詞が重く響いた。
 こうして、これまで順調だった幸夫の運命が徐々に狂いだした。それは一旦、下降線を辿ると坂道を転げ落ちるように留まるところが無いようだった。
 久美子と別れてひと月も経たぬ頃、勤務時間中に、幸夫に庶務課長から呼び出しが掛った。
「田中君。困ったことになったよ。……君、身に覚えがあるだろう?」
「……須藤久美子さんとの婚約解消の話でしたら……あれには、ちょっとした誤解がありまして……」
「君が彼女と別れた話なら噂で聞いたよ。……だが彼女、もう次の男と付き合ってるそうだぜ。……しかし、今日の話はそんなことじゃないんだ。……先週、会社に弁護士がきてね……」
 幸夫の胸がドキンと鳴る。
「弁護士……って、あの……」
「そうさ、君のチカン行為が警察沙汰になったという話さ」
「あれが……誤解のもとで……私は身に覚えのない……」
「ダメダメ。先方は君が署名捺印した謝罪状と、公式な示談書を持ってるんだ。……君がいくら否定しても、もう遅いよ。」
 幸夫は黙り込んだ。"やっぱり、あんな謝罪状を書くんじゃなかった!"との悔いが心に渦巻く。
「先方は会社を訴えると言っている。別に損害賠償を求めているわけではないが、会社の管理不行き届きを世間に公表して社会的な制裁を加えるのが目的だそうだ」
「で、僕にどうしろと……」
「社長は、どんなことがあっても公表を防げと言っている。社会的イメージダウンで会社が被る損害は計り知れないほど莫大だからだ。……それで、昨日、私が会社を代表して先方と示談交渉をしてきた。」
「そ、その結果は……」
「先方は示談に同意してもいいが条件があると言っている。つまり、会社が君に懲罰を、それも被害者が望むとおりの懲罰を下し、君がそれに従うのが条件だ」
「被害者が望む条件……って。」
「一つは君の懲戒処分だ。君は懲罰として3ヶ月間清掃員としてトイレ掃除をやって貰う。その後は、営業課の主任から平社員に降格され、これまで君の部下だった近森小夜子が代って主任になる。君はその彼女の部下になるんだ。」
「トイレ掃除は仕方ないとしても、降格されて配下の女の部下にされるなんて、そ、そんな屈辱的な……」
「でも、これは社長命令だ。なお、社内規則では社会的破廉恥行為に基づく懲罰人事に不服で会社を辞めることは許されないそうだ。不服なら法廷に訴えることは出来るが、解決には1〜2年掛るし、その間は新人事に従って仕事をしてもらうことになる」
 幸夫は明らかに動揺していた。社内のトイレ掃除をする自分の姿を同僚や部下たちに曝すことも辛かったが、その後職場に戻っても、日頃辛く当って来た近森小夜子に今度はその部下として仕えるのだから、存分に仕返しされることを覚悟しなければならない。
「この人事は君としても辛いだろうが、どうしても飲めない話ではないと思うが、問題はもう一つの条件だ」
「も、もう一つですって?」
「そう、だがこれはプライベートな懲罰で、会社として君に命令するわけにはいかない。……その内容たるや……ちょっと君にも気の毒で僕の口からは言えない。ここに先方の書いてきた懲罰要求書があるから、よく読んで返事を聞かせてくれ」
 庶務課長は幸夫に分厚い封筒を渡して席を立った。
 自分の席に戻ってその中身を拡げた幸夫は、思いもかけぬ内容に愕然とした。もう一つの条件の骨子が箇条書きされている。
(1) 田中幸夫は、自分にはマゾヒストとしての倒錯した性欲があることを告白し、女性の下半身に異常な興味を抱くあまり痴漢行為を働いたことを認めること。
(2) 痴漢行為の責任を取って、これまで交際してきた須藤久美子との結婚を諦めること。
(3) そして須藤久美子が他の男と結婚するさいは、彼女への思いを断ち切るために犬として夫婦への性的奉仕をすることを二人に願い出ること。
(4) 犬としての奉仕期間は3カ月間とし、会社での懲罰勤務時間を除く全ての時間を当てるものとするが、不適切な行為(反抗や不服従)があった際はその都度一カ月単位で期間が延長される。
(5) なお、田中幸夫が以上の内容に従わない場合は、被害者側は痴漢行為の事実を公表し、雇用主である明和商事の管理責任を法廷に訴える。なお、その場合、明和商事は別途同人物を訴え「破廉恥行為により会社が蒙った損失の賠償」に係わる民事訴訟を起こすことになる。
 幸夫にとって晴天の霹靂とはこのことである。
 しかし、痴漢行為は不本意ながらもすでに認めざるをえない羽目になっているし、元恋人の須藤久美子が彼を見限ってすでに去ってしまっている以上、彼女との結婚は最早望めないが、自分が夫婦への奉仕を望むマゾヒストだと告白したり、その久美子の結婚後に犬として夫婦に性的奉仕を願い出たりすること自体、とんでもない突飛な着想と言わざるを得ない。
「おかしい。これには何か裏がある!」
 幸夫の心に疑いの黒い雲が湧いたが、さりとてどうすればよいか見当もつかなかった。
 唯一の心当たりは、あの弁護士にお茶の給仕で久美子が姿を見せた後、彼女との結婚を口にしたことだった。もしかして……被害者が幸夫を罰するために最愛の女との仲を裂き、その上、その女の犬にされるという屈辱を与えるのが目的だとしたら?……でも、何故そこまで?
 翌日、幸夫は庶務課長にこの「懲罰要求書」の内容を問いただした。
「一体、会社はどう考えているのですか?……まさか、私にこんな屈辱的な要求に屈しろとでも言う積りじゃないでしょうね?」
「まあ、そういきり立つなよ。……会社としては破廉恥行為を起こした社員を守るよりも、社名に傷がついて販売に支障が出るのを恐れているんだ。だから、君がこの要求を拒めば、被害者の要求に従って君を告訴するしかないのが現実さ。」
「………………」
「そう、たった3カ月の間、君が我慢すればすべては丸く収まるのさ。それに被害者の手前、一時的には君を降格するが、ほとぼりが冷めたら海外の支局長にでも栄転を考えてもいい。」
「でも、ぼ、僕の名誉は……それに、こんな屈辱を!……しかも、3カ月も奉仕を続けさせられたんじゃ、その間ずーっと、そしてその後でも皆に永久に蔑まれるんだ!」
「そりゃ、君。身から出た錆だよ。君の痴漢行為が全ての始まりさ。……でも時が経てば皆と顔を合わせないで済む海外で再起を計る道が残されている。会社も内心では同情しているんだから、その時は、きっと悪いようにはしないさ。」
 がっくりと項垂れる失意の幸夫にとって、庶務課長の慰めはあまり足しにならなかった。

(続く)