阿部譲二のMのある風景―屈辱の披露パーティ(第二話)


2010/11/27 阿部譲二作


6か月前
 明和商事の営業課勤務の田中幸夫は、このところ幸運続きだった。仕事の成績が上がって主任に昇格したばかりだったし、2年越しつきあっている庶務課の須藤久美子とは近く結婚することになっていた。人目にも社内一の美人の誉れ高い彼女を射止めたのだから、彼が有頂天になるのも無理は無い。心残りなことといえば、彼女との交際を壊さないよう慎重になりすぎたこともあって、まだ彼女とはキス以上の関係に進んでいなかったこと位である。
 週明けの月曜日、満員の通勤電車の車中で幸夫は吊革を握った左手に挟んだ経済誌に目を走らせていた。カーブに差し掛かった車中では皆の身体が一斉に窓側に傾く。ガタンと車両が揺れ次の駅に向かってブレーキが掛った時である。
「皆さん、痴漢!……チカンでーすぅ!!!」
 車両内に女の甲高い声が響いた。
 同時に、電車はホームに滑り込む。ドアが開く前に、乗客の視線が一斉に女の方に集中する。だが、何ということだろう。女の左手が、幸夫の右手の手首を掴んで差し上げているではないか。
「この男です。チカンよ。チカン!」
 女の連呼に振り向いた周りの乗客は、一斉に幸夫に冷たい視線を浴びせた。
「ば、馬鹿を言うな。僕は関係ない!」
 幸夫は叫びながら女の手を振り切り、ドアに向かった。
「待ちたまえ。逃げるんじゃない!」
乗客の一人が声を高める。
 周りの男たちの手が幸夫の肩を押さえようとした。狼狽した幸夫は2〜3人の乗客たちと一緒に転がるようにホームへ降り立った。
「この男です。私にチカン行為をしたのは!」
 女に呼ばれて近寄った二人の駅員が、人混みの中で揉み合う幸夫の両腕を抱える。
「う、うそだ!僕は何もしていない!」
「暴れないで!……詰め所で話を聞きますから、同行して下さい」
 こうなると多勢に無勢で、幸夫も観念せざるを得なかった。
この駅の詰め所には警察官が常駐していて、駅内でのもめごとの処理に当たっている。
「この男が私のお尻を触ったんです。……それも電車が揺れるたびに何回も何回も!」
「でたらめを言うな。僕は君が傍に居たことすら覚えてないんだ……」
「でも、確かです。……一緒に居た私の友達だって目撃しています。」
 女は少し距離を置いて付いてきた女友達を呼び入れた。
 話は所詮平行線で水掛け論に終始したが、女の友達の目撃談が警察官の心証をクロに導いたようだった。
「私、後ろに立っていたんですが、この男が右手で圭子ちゃんのお尻の割れ目に手を差し入れようとしていたのがはっきり分かりました……間違いなくこの男が犯人です。」
 幸夫は、警察官にこのままだと書類送検の手続きを取ると言われて色を失った。
「勿論、双方が納得して示談に同意すれば、記録に残すだけで済ますことも出来るんだがな……」
 警察官は、ややうんざりした顔つきでそれとなく示談を勧める。
 結局、幸夫が女に「謝罪状」を書くことで女は告訴を取り下げることになった。
 幸夫にしてみれば、身に覚えのない言いがかりの罪状を認めた上、署名捺印した「謝罪状」を書くこと自体、大いに不満で懸命に抵抗したが、裁判沙汰になれば目撃者が居ては決定的に不利だと警官にさとされて、しぶしぶ屈伏し示談に応じたのだった。
 田中幸夫はそのまま出勤したが、事がことだけに会社へは報告せず、体調が悪くて病院に寄っていたと言い繕った。
 その翌日のことである。庶務課からの電話に出た彼の耳に恋人の久美子の声が響いた。
「田中さん?私、今フロントの受け付けデスクで勤務中ですけど、今、弁護士の人が来て田中さんに会いたいと言うの。用件を聞いたら、昨日の痴漢事件の示談についての話というの。もう少し詳しく伺わないと取り次げないと言ったら、幸夫さん、あなたが昨日電車の中で痴漢を働いたって言うじゃないの。……私、びっくりしちゃって!……」
「僕には覚えのないことだから、心配要らないよ。ちょっとした誤解さ。……どこか空いている応接室に通しておいてくれるかい。すぐ行くから。」
 幸夫の胸が早鐘のように鳴った。職場まで押し掛けてくるとは、それに弁護士とは?
 不安を抱えたまま、幸夫は客室でその弁護士と向かい合った。
「昨日の示談書を正式な法律文書にして残すために参上したのですが、この後、社長か役員の方に会わせて下さい。会社として昨日の事件をどう処理されるか伺うためです。」
「な、なんですって?……社長に会うですって?……示談で話はついたんでしょう?そのための示談じゃないのですか?」
「示談はあくまでも当事者間の解決法です。痴漢行為は法令で取り締まりの対象になっているので、処罰されるかどうかは別として、あなたが法を犯した事実は残ります。それに、会社には社員の行為に対する社会的責任があります。……」
 ここで、熱を帯び始めた会話を遮るようにドアがノックされた。
 「失礼します」
久美子がお茶を持って入って来たのである。熱っぽい説明を中断された弁護士は、所在なげに煙草に火を付け、テーブルにお茶を配る久美子に話しかけた。
「お嬢さん、先ほど受付で、この田中さんへのあなたの電話を横から聞いていたのですが、ずいぶん親しそうですね。……ひょっとすると……」
「待って下さい。……余計なお世話ですよ!」
 激しく遮る田中幸夫の気配に押されるように、弁護士は黙り込んだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
 儀礼的な挨拶を残して久美子が退席すると、弁護士は幸夫の顔を見つめてニヤリとする。
「やっぱりそうですか。あんた達、交際してるね。あんなに綺麗な女の子の恋人が居るのに他の女にチカン行為をするなんてね……それとも、あの子はただの遊び相手ですかね」
「ほっといて下さい。……僕たちはまじめな関係で秋には結婚する予定です。……それより、どうしても社長に会うのですか?」
「今日の所はこれで帰ります。……被害者の人とよく相談して出直して来ますが、その時には、社長といわず会社の幹部の方とゆっくりお話しするつもりです。……いえ、アポイントはこちらで直接取りますからご心配なく。」
(続く)