#104マゾヒストの愉しみ <フィクションと現実> 阿部譲二作
…フィクションと現実の間を往復し、女性の優越とわが身の劣性を認識しつつ、めくるめく転落感に見を任せることの快楽。…
世間でいわゆるM小説と言えば、男M女Sの組み合わせが常道である。
当然マゾヒストの男性、サジストの女性が登場しても良いのだが、現実には、マゾっぽい男性とサドっ気のある女性の何れか、又は両者のからみが主流に成っている。
特に私の場合、ノーマルな男女の間にSM的なシチュエーションを設定して、女性に辱められ嬲られる男性の心理を、わが身に置き換えて筆を進めることが多い。
と言うのも、マゾヒストとしての自分を意識し、その心の琴線に触れる科白を、そして筋立てを展開していくのである。
その意味では、小説を書くこと自体がマゾヒストとしての私のひそかな愉しみと言えなくもないが、さすがに読者を意識すると、表現や言い回しに対する配慮、更に重複やマンネリを避け新味を出そうとする工夫等に、エネルギーを使わざるをえない。しかも、限られた枚数に纏め、定められた期日までに完成させる努力に、しばしば苦痛を覚えることも事実である。
従って私の愉しみは、小説の種になる様々な"想像"をこらし、マンネリを防ぐために新鮮な"体験"を重ねることにある。
想像をベースにした物語は完全なフィクションだが、これに実際の体験に裏付けされた現実をミックスすることで、全体が活き活きとしたリアリティを帯びる……少なくとも私はそう信じている。
考えてみると私は、少年期より想像好きだったのである。
昔の映画に、今は亡き喜劇俳優ダニー・ケイ主演の"虹を掴む男"というのがあった。
主人公は自分をいろいろな理想のキャラクター、例えば西部きってのガンマンに、又、冷静水のごとき賭博師に、更には名うての戦闘機乗りに擬して空想を展開し、ヒーローとして、その都度、バージニア・メイヨー扮する美女の愛を克ち得る白昼夢を次々と見るのである。
私の想像も、自己を英雄視するシチュエーションから始まって、やがては自己犠牲を伴った悲劇の主人公に至る。そして、オナニーを覚えてからは、手足を縛られて身動き出来ぬ我が身に興奮し、やがては美女に奴隷として虐げられる自分を夢想しては射精するように成ったのである。
私の場合、"想像"のヒントは至る所にある。テレビドラマや小説等に少しでもMっぽいシーンがあると、それを自分の好みのまゝに作り変えてみるのである。
少し前にNHKテレビに、"女の時代"と題するドラマがあった。新任の女性課長の周辺に起こる人間模様を描いたものだが、昔自分を捨てた上司の課長と同格に成り、営業成績でこれを凌ぐ挿話があったが、私の想像の翼はこの続きとして直ぐに、その女性課長が間もなく部長に昇進し、昔の男を部下としてこき使うシチュエーションを生み出してしまうのである。
一時、主婦ならぬ"主夫"という言葉が流行し、テレビドラマでも繰り返し取り上げられた。これも、女主人公をSっぽい性格に描きなおせば、そのまま男性Mファン向きのものに変貌することは容易の想像できよう。
昔の"奇譚クラブ"や"風俗草紙"を飾ったM小説を読み返してみると、さすがに時代を反映してか、露骨な描写を避けて、伏線を張り、じっくりとクライマックスを盛り上げていく手なれたプロの作品が多い。
これもドギつい表現の氾濫する現代では、助走部分をカットしてもっとテンポを速め、その代り山場をしつこく、時にはえげつない程ネチネチと書き込まないとピッタリしないようである。
当然、余韻といったものが失われ、全体にこれ山場の連続でメリハリに欠けるオナニー用のSM小説が氾濫することになる。
しかし私はそれでも良いと思う。SM描写は本来、作家にとって調味料だが、京風の薄味を賞味するファンもあれば、飛び上がるようなインドカレーを好む読者もある筈である。
そして、読者も、かって私がそうであったように、きっと自分なりの想像を加えて、各場面をビジュァライズしているに違いない。
しかし、このような想像に浸っている時期を過ぎると、何時しか現実の世界にその空想を移植して、夢を現実にしてみたい欲望に駆られるようになる。そして正常な常識の支配する日常に、刺激的な異常性を持ち込んで、周囲との不協和音に新鮮さを求めてみたくなる。
具体的に考えられる方法として、交際雑誌を通じて自分に合った相手を探すか、さもなくば、街のSMクラブを訪問するかである。
前者は、よほど運が良くないと、ピッタリした相手には回り逢えぬのが普通で、気長に機会を待つしかない。
しかし後者は、金さえ払えばプロのSM嬢が直ぐに相手をしてくれて、しかも初心者には丁寧に手ほどきもしてくれる。従ってSMに目覚めた、或いは経験の乏しいファンにとっては、一応好奇心を満足させてくれる場としてまことに便利である。
しかし、これとてシリアスなファンにとっては直ぐに物足らなくなる。金を払った上での一時の狎れ合いのプレイに飽き足らず、本物を求めるようになるからである。
私の場合、SM作家としての特権(?)を利用して、時々SMクラブの女性の溜り場を訪れることにしている。昔、ストリップ劇場の楽屋裏に入り浸った作家が有名だが、似たような発想である。
女の子の質が良いので有名な、六本木の老舗のSMクラブ"ルージュ"の経営者を紹介してもらい、出番を待つSM嬢とダベりながら彼女等の生態に触れる機会を持ったのだが、なかなか参考になると同時に、愉しみも多い。
お互いに顔馴染になり、私がM性であることを知ると、彼女等はやがて私に肩や腰のマッサージをさせたり、近所の店へ買い物に行くことを命じたり、時にはトイレの掃除をさせられたりするようになった。
若い女性に命令され、顎で使われるのは、M性の醍醐味でもある。しかし、残念ながら男性の経営者が同席しているため、それ以上の事態には発展しない。せいぜい女の子の食べ残しを与えられたり、パンティを洗わされたりする程度である。
しかし、時にはハプニングもある。
ソファーに腰掛けているマリちゃんの前にへたり込んで、ソックスの上から足を揉まされていた時だった。彼女の形の良い足がスッと伸びて私の顔面を捉えたのである。
彼女のソックスに包まれた足裏がグイグイと顔面をにじり、ツーンと異臭が鼻を刺す。
「フッフッフッ……ハイヒールの中でむれた足の臭いはどおお?」
他の女の子達のクスクス笑いが耳に入り、傍の男性の経営者の視線を意識して、思わず、カーッと顔が火照ったものだった。
又、ある日、その経営者が急な腹痛で帰宅したことがあった。女の子たちは俄然リラックスして奔放になり、残った私を虐めに掛かる。
裸にされて二人乗りの馬にされた挙句、深夜とはいえパンツを窓から表の道に投げ捨てられ、破れた女性用のパンストを穿いた姿でそれを拾いに行かされ時は、まことにスリル万点だった。
しかも、そのまゝしばし戸外に閉め出されたのだから、さすがの私も悲鳴を上げた。
心優しい久美ちゃんが戸を開けてくれなかったら、近所の人に気付かれて大事になるところで、思わず冷や汗をかいたが、思い起こしてみると懐かしい思い出である。
振り返って見て、どうやらマゾヒストの本質は自己被虐……自分を精神的に、或いは肉体的に徹底的に痛めつけて、性的快感を味わうことにあるらしい。
セックスが絡む以上、自分を痛めつける相手が必要で、それは当然異性……私の場合は女性でなければならない。
女性の優越を裏返して、男性である我が身の劣性を認識しつつ、めくるめく転落感にしばし我と我が身を委ねるのが、私の作品の一番大切な要素なのである。
----------------------------------------------------------------------------------------
1987年秋 S&Mスナイパー11月20日増刊号
----------------------------------------------------------------------------------------
1987年 阿部譲二(注)
(注)スナイパー本誌の読者にはすでにおなじみの、男M派作家。そのあまりに大胆な被虐描写で多くの熱狂的なファンを持つ。実体験に裏打ちされた氏の想像力は、M男が辿りつく究極の場所を探り当てている。
----------------------------------------------------------------------------------------
2010/05/24